盲信
20年以上前、大学生の頃、教授の紹介で放射線関係の資格試験の試験官というバイトを経験した。
場所は、確か渋谷が最寄駅の私立大学だったと思う。
内容は凄く簡単で、日当はソコソコ良かった。
更に、試験が終わった後には打ち上げがあり、バイトまで全員呼んで頂いた。
料理は豪華で量も多く、バブル期だったことを差し引いても「金があるなあ」という印象だった。
その打ち上げで、結構時間が経った頃、上座に座っていた偉い人がこう言った。
「原発は安全なんだよ」
周囲も口々に肯定し、原発推進の決起集会みたいになっていた。
僕は何の興味も無かったけど、何か少し危うさを感じながら*1板盛りのウニを食べていた。
原発の開発には胡散臭いところがあった。モノは必ず壊れる。でも東電など電力会社は、絶対に壊れないと本気で思っているように見えた。
迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
そう、彼らは本気で思っていた。「安全」だと。「絶対に壊れない」と。
でも、そう思うことは自由だけど、起こり得るリスクを想定して対策を講じておくことは必要。
議論は独善的にならないよう、色々な人を入れて様々な角度で行うことも必要。
あの日僕が見た人たちに、そのような謙虚さは無かった。
人は神様ではないのだから、それをただ責めることはできない。
だけど、それでも我々は、起きてしまった事故について「原因」を究明しなければならない。
「原因」の究明無くして「対策」は無いから。
そして、「原因」のひとつには「盲信」があった。確かに、あった。
*1:だからこのシーンを覚えている。
人として最低の行為
茨城県つくば市の一部の職員が、福島第一原子力発電所の事故後に福島県などから避難してきた転入者の一部に、スクリーニング(放射線検査)を受けた証明書の提示を求めていたことがわかった。
asahi.com(朝日新聞社):転入者に放射線検査の証明要求 「勘違い」つくば市謝罪 - 東日本大震災
このニュースを酷いと思わない人に、差別を語る資格は無い。
「ほとんど影響を受けていない」人の「情念」
何というか、何処も同じだなあという話。
その日、妻は、近くのドラッグストアで、「やっと見つけた水のペットボトル」を買いこんできていました。
といっても、「おひとりさま、3本まで」だったそうなのですが。
僕はそれを見て、「そんな、放射線量もごくわずかだし、買い占めみたいなことをしなくても……みっともないし」って、少しだけ苦言を呈したのです。
しかしながら、妻の返事はこうでした。
「いまのところそんなに心配しなくてもいいのはわかってる。もし、これから放射線量が増えても、私たちは大丈夫かもしれないよ。もし、あなたが自分の責任で、どうしても危険な状況になっても水道水を使うというのなら止めない。でも、親として、子どもにそんなリスクを負わせることができる?」
2011-04-16
僕の妻も似たような事を言う。
違うのは、僕は首都圏に住んでいるので、もっとずっと早い段階でこの状況が訪れたこと。それから、妻は僕の言うことなんか聞かないので、そもそも議論にならないこと。
それともうひとつ、たまたまだけど、僕の家は賃貸マンション時代に所謂家庭用のウォーターサーバーというのを使っていて、家を買って引っ越してから一旦止めていたんだけど、それを再開するだけで済んだことだ。
なので、リンク先の方も奥方との折衷案として、ウォーターサーバー利用は如何か?
放射能の件を抜きにして、美味しいし、便利だし…と思えばいい。(僕は本当にそう思っている。)
あと、上記をコメントでなく自分の日記に書こうと思ったのは、他に書きたいことがあったから。
いやほんと、この間こっちに書いた話じゃないけど、「みんなはどうすべきか?」と考えたときと、「自分はどうすべきか?」と考えたときでは、答えは全然違ってしまうことがある。
それではいけない、と僕のなかの「大義」みたいなものは叫ぶのだけれども、「水をちょっと多めに買うくらいのことでリスクが軽減できるのに、なぜそうしないの?しかも、これは『家族の問題』なんだよ?」と、「情念」が囁く。
もっとも酷い災害に遭った人たちが支え合っている一方で、ほとんど影響を受けていない九州北部で、浮き彫りになってしまう「夫婦の考えかたの相違」。
やっかいなのはこの「情念」を「ほとんど影響を受けていない」人が持つこと。
震災から1か月経った今、それがいちばん怖い。
だが、内に抱える腹立ちや怒りを今回ばかりは遠慮せずに言葉にしてはいいのではないか。
それほど、東京を中心とした首都圏から発信される言葉は、下品なまでに卑しく、呆れ果てるものが多いからだ。
ここまで言葉に傷つけられ、それでも黙っている事は、もう出来ない。今回だけは、東北人はキレていい。誰もキレなくても、私はキレる。
http://anond.hatelabo.jp/20110417021106
僕は、首都圏に住んでいて、今回周囲の方々は驚くほど冷静だと感じている。
停電も、電車の乱れも、物がないことも、水道水も、ほとんどの人は受け入れている。
買占めだなんだと騒ぎはあっても、それは一部の人とマスコミの思惑であって、大多数の人々はいつもと変わらない生活を送っている。
それはやっぱり、首都圏の人は「影響を受けた人」だからだ。
一方で、僕は「東北の怒り」も少しばかり、わかる。
僕は長いこと東北の、海沿いで仕事をし、生活していた。
その周辺は今回の震災で、無残な状況になった。
YouTubeの映像を観るのに、2週間かかった。
映像がUPされているのは知っていたけど、観ることができなかった。怖かった。
僕と同じように長くその土地で生活していて、今はその土地を離れている知り合いが、仕事もあってその周辺に行ったけど、写真を撮ろうとしてもシャッターが押せなかったと言っていた。
だから、軽々しく何かを言えないし、何かを言う人に怒る感情も、本当にほんの少しだけ、わかるのだ。
それで、僕は「東北の怒り」の根幹にあるものと、「情念」を「ほとんど影響を受けていない」人が持つことが似ていると感じる。
この「情念」は、我慢が効かない。今の状態が続くと更にどんどん膨れ上がっていくだろう。
「子供たちのために」という美辞麗句。
その言葉ひとつで、「情念」は無敵となる。
無敵となった「情念」は暴走する。
既に、その気配は見えている。
それが、怖い。
「子供たちのために」は「自分の子」「自分の周囲」という但し書きが付く。
じゃあ、被災地の子供たちはどうなるのか。
福島から来たと聞いただけで逃げた船橋の子供たち(及びその親)と、被災地の野菜はとにかく怖いから全て食べないと言う主婦は根本的に同じ「情念」を持っている。
科学の目で冷静に見て、リスクを判断することは無い。*1それが「情念」だからだ。
その「情念」が被災地の子供たちを苦しめるという想像力は、残念ながら「ほとんど影響を受けていない」人には、無い。
「情念」の暴走は「無自覚な暴力」へ変化していく。それがどんなに罪深い事か、知ってもらいたい。
*1:僕は何でも安全だとも思っていない。適切に判断せよ、と言いたいだけ。
絶対に負けない
震災が起きてから現在までの間、必死で頑張っている方々を見て、ウルトラセブンを思い出した。
正確には、ウルトラセブンに出てくる、ウルトラ警備隊。
第25話「零下140度の対決」に於ける、彼らの描写。
「ウルトラセブン!どうやら、我々ポール星人の負けらしい。第3氷河時代は諦めることにする。しかし、我々が敗北したのはセブン、君に対してではない…。地球人の忍耐だ!人間の持つ使命感だ!その事をよぉ〜く知っておくがいい、ハッハッ、われわれは、君のエネルギーが、元のように多くなく、そして活動すればたちまち苦しくなる弱点を作っただけでも満足だ!ハッハッハッハッ」
#25「零下140度の対決」
ウルトラセブンの弱点を見抜き、地球を氷河期にしようとした宇宙人も、地球人の忍耐には勝てなかった。人間の持つ使命感には勝てなかった。絶対に負けないという、不屈の闘志には敵わなかった。
今回被災に遭われた方々も、復興しようと努力されている方々も、震災という敵になんか絶対に負けない。報道されている皆さんの姿を見て、そう思う。
迂闊
中国河北省石家荘市で軍事管理区域に許可なく侵入したとして取り調べを受けた建設会社「フジタ」(東京都渋谷区)の日本人社員4人のうち唯一拘束が続いていた高橋定さん(57)が10日帰国し、同社で会見した。他の3人より解放が遅れたことについて、高橋さんは「私がビデオ撮影をしていたからではないか」と述べた。
http://mainichi.jp/select/world/news/20101011ddm041030070000c.html
中国という国は、そういう国。
一昔前のガイドブックには「みだりに撮影しないように」という注意書きがあった。
僕が初めて中国へ行ったのは10年以上前、仕事で使うための使い切りカメラ*1は持っていたが、何処かへ連れて行かれるかと思うと風景なんて撮影できなかった。車の中からでも、だ。
それから何度も中国へ行き、友人もでき、仕事上の関係も続いているが、変わらないのは「中国はそういう国」という認識だ。
個人は別。国としては、あの国は言論の自由は無い。個人の権利も無い。何より、人の命が軽い。
拘束された方々は、僕よりもこの国に慣れていたのかも知れない。
しかし、慣れているが故に、基本的な事を忘れてしまったのかも知れない。
この国は我々の国と社会体制が違うという事を。
だから僕は思う。
この人たちは「迂闊」だと。
僕にはブログは必要無い
とんでもなく忙しい日々が続いていた。
前のエントリーが1月9日だから、3ヶ月以上このブログを放置していたことになる。
忙しかったのは、仕事と、プライベートの両方。
仕事は仕方ないが、プライベートの方は色々酷かった。
今も解決はしていないが、一応終息には向かっている。
で、久々にこうして書いていて思うこと。
上の文章だと、「忙しかったから書けなかった」と読めるかもしれない。
でも、それは嘘だ。
書こうと思えば、書けた。
いくらなんでも、そこまで時間が無い訳じゃない。
でも、書かなかった。
書く気が起きなかった。
世の中には色々な人がいて、毎日長文のエントリーを書いてる人もいる。
書かないと死んでしまうぐらいの人もいる。
でも、僕はそうではないらしい。
極端に言えば、僕にはブログは必要無いのだろう。
僕にとって、ブログは、数ある選択肢の中のひとつに過ぎない。
外界との関わりも、何かのテーマに対する語らいも、リアルでその機会を持っている。
書かなければならないという使命感も、切迫感も、無い。
社会的に抑圧されてもいないし、社会を恨んでもいない。
ただ、書きたいときに書きたいことを書きたい。それだけ。
だけど、書くことは止めない。
これからも、気が向いたら、書く。
気が向かなければ、書かない。
書くことが苦痛にならない範囲で、楽しむために、書く。
さて、次に書くのはいつになるやら。
数ヵ月後か、それとも明日か。
危機感の差
日本社会はいま急速に流動性を失って階層化が進行している。上層の一部に権力も財貨も情報も文化資本も集中する一方で、巨大な「下層」が形成されつつある。その階層差を形成しているのは端的には危機感の差である。「いま、私たちはどうふるまっていいかわからない状況に入りつつあり、正解は誰も知らないし、誰も教えてくれない」ということを切実に受け止め、それゆえ自分の判断力と感覚を信じて生きる人間たちは生き残り、「どうすればいいんでしょう?」とぼんやり口を開けて、「正解」を教えてくれる人の到来を待ち望んでいる「受け身」の人たちは下層に吹き寄せられる。残酷なようだが、そういうことである。
そんなことを訊かれても - 内田樹の研究室
そうだよなあ。