「ほとんど影響を受けていない」人の「情念」

 何というか、何処も同じだなあという話。

その日、妻は、近くのドラッグストアで、「やっと見つけた水のペットボトル」を買いこんできていました。

といっても、「おひとりさま、3本まで」だったそうなのですが。

僕はそれを見て、「そんな、放射線量もごくわずかだし、買い占めみたいなことをしなくても……みっともないし」って、少しだけ苦言を呈したのです。

しかしながら、妻の返事はこうでした。

「いまのところそんなに心配しなくてもいいのはわかってる。もし、これから放射線量が増えても、私たちは大丈夫かもしれないよ。もし、あなたが自分の責任で、どうしても危険な状況になっても水道水を使うというのなら止めない。でも、親として、子どもにそんなリスクを負わせることができる?」

2011-04-16

 僕の妻も似たような事を言う。

 違うのは、僕は首都圏に住んでいるので、もっとずっと早い段階でこの状況が訪れたこと。それから、妻は僕の言うことなんか聞かないので、そもそも議論にならないこと。

 それともうひとつ、たまたまだけど、僕の家は賃貸マンション時代に所謂家庭用のウォーターサーバーというのを使っていて、家を買って引っ越してから一旦止めていたんだけど、それを再開するだけで済んだことだ。

 なので、リンク先の方も奥方との折衷案として、ウォーターサーバー利用は如何か?

 放射能の件を抜きにして、美味しいし、便利だし…と思えばいい。(僕は本当にそう思っている。) 

 
 あと、上記をコメントでなく自分の日記に書こうと思ったのは、他に書きたいことがあったから。

いやほんと、この間こっちに書いた話じゃないけど、「みんなはどうすべきか?」と考えたときと、「自分はどうすべきか?」と考えたときでは、答えは全然違ってしまうことがある。

それではいけない、と僕のなかの「大義」みたいなものは叫ぶのだけれども、「水をちょっと多めに買うくらいのことでリスクが軽減できるのに、なぜそうしないの?しかも、これは『家族の問題』なんだよ?」と、「情念」が囁く。

もっとも酷い災害に遭った人たちが支え合っている一方で、ほとんど影響を受けていない九州北部で、浮き彫りになってしまう「夫婦の考えかたの相違」。

 やっかいなのはこの「情念」を「ほとんど影響を受けていない」人が持つこと。

 震災から1か月経った今、それがいちばん怖い。

 

だが、内に抱える腹立ちや怒りを今回ばかりは遠慮せずに言葉にしてはいいのではないか。

それほど、東京を中心とした首都圏から発信される言葉は、下品なまでに卑しく、呆れ果てるものが多いからだ。

ここまで言葉に傷つけられ、それでも黙っている事は、もう出来ない。今回だけは、東北人はキレていい。誰もキレなくても、私はキレる。

http://anond.hatelabo.jp/20110417021106

 僕は、首都圏に住んでいて、今回周囲の方々は驚くほど冷静だと感じている。

 停電も、電車の乱れも、物がないことも、水道水も、ほとんどの人は受け入れている。

 買占めだなんだと騒ぎはあっても、それは一部の人とマスコミの思惑であって、大多数の人々はいつもと変わらない生活を送っている。

 それはやっぱり、首都圏の人は「影響を受けた人」だからだ。

 一方で、僕は「東北の怒り」も少しばかり、わかる。

 僕は長いこと東北の、海沿いで仕事をし、生活していた。

 その周辺は今回の震災で、無残な状況になった。

 YouTubeの映像を観るのに、2週間かかった。

 映像がUPされているのは知っていたけど、観ることができなかった。怖かった。

 僕と同じように長くその土地で生活していて、今はその土地を離れている知り合いが、仕事もあってその周辺に行ったけど、写真を撮ろうとしてもシャッターが押せなかったと言っていた。

 だから、軽々しく何かを言えないし、何かを言う人に怒る感情も、本当にほんの少しだけ、わかるのだ。

 それで、僕は「東北の怒り」の根幹にあるものと、「情念」を「ほとんど影響を受けていない」人が持つことが似ていると感じる。

 この「情念」は、我慢が効かない。今の状態が続くと更にどんどん膨れ上がっていくだろう。

 
 「子供たちのために」という美辞麗句。

 その言葉ひとつで、「情念」は無敵となる。

 無敵となった「情念」は暴走する。

 既に、その気配は見えている。

 それが、怖い。

 「子供たちのために」は「自分の子」「自分の周囲」という但し書きが付く。

 じゃあ、被災地の子供たちはどうなるのか。

 福島から来たと聞いただけで逃げた船橋の子供たち(及びその親)と、被災地の野菜はとにかく怖いから全て食べないと言う主婦は根本的に同じ「情念」を持っている。

 科学の目で冷静に見て、リスクを判断することは無い。*1それが「情念」だからだ。

 その「情念」が被災地の子供たちを苦しめるという想像力は、残念ながら「ほとんど影響を受けていない」人には、無い。

 「情念」の暴走は「無自覚な暴力」へ変化していく。それがどんなに罪深い事か、知ってもらいたい。



*1:僕は何でも安全だとも思っていない。適切に判断せよ、と言いたいだけ。