無邪気で傲慢なのはあなただ

しかしそろそろ気づくべきだと僕は思った。ノブレス・オブリージュという言葉の意味とは少々違うのかもしれないが、自分の好きなことを不自由なくうまい具合にやれている人間は、それなりに周囲の、自分よりうまくいっていない人のことを気遣うべきではないか。偽善でも良いから、がつがつした気持ちをそうい気遣いというオブラートにくるんだときに、嫉妬やら偏見やらから身を避けて、真の頭の良さを発揮できるのではないか。研究室の雑用やらをこなしながら発表を仕上げている学生もいるなかで、この学生はひたすら自分に閉じこもって作業をしていた。練習を見てもらう段になってまで自分しか見えていないのでは、「他の研究室の同期よりもずっと立派な発表をして、奨学金免除を受けたい」などと思っているのかな、などと勘ぐられてしまう。

頭のいい人の、無邪気さと傲慢さのあいだ - 千早振る日々

 
 コメント欄にも既に書かれているけど、いかにも日本的な、しかも閉鎖されたところにいて他人の批判にさらされない人の考え。おお嫌だ。

 PineTree氏のすべきことは頭の良い彼についての批評ではなく、彼以外を引き上げてあげることだ。
 

修士論文の発表が迫っている時期で、4人もいる修士2年の学生がパワーポイントと格闘している。修士2年の学生は、毎年発表する前に、「練習」をすることになっている。どこの研究室でもあると思うが、すなわち、修論の発表をする学生一人一人について、博士課程の学生、そして若手の研究員や教員が彼らの発表を見てあげて、問題点をコメントするのである。

しかし、バラバラに来られたり、好きな時間にやられても困る。教員も年上の学生も、都合というものがあるからだ。そこで、練習を見てもらいたい彼らは、毎年上の学年の先輩や、同学年で相談して、練習の日にちを決めることになる。

まず困ったことに、今年はこの相談がほとんどなく、「明日やらせてください」「これからやりますがいいですか」といった具合でバラバラに学生がやってくる。例年通りなら、突然だろうがなんだろうが見てくれて当たり前だと思っているフシがある。それでも、まあいい。どうせやらなければならないのだ。みんな優しいし、どうにか都合をつけて一人おおよそ3時間くらい(それ以上かかるときもある)、発表の3日前までには、4人分の発表の練習を見ることができた。

学会発表したことのない2人は、その学生が2回目の練習をしている最中、違う部屋で「発表まで時間がないですが、もう一度見てもらおうかなと思っているのですが…」などと言いながらスライドを直していた。しかし、博士課程にすすむ例の学生に時間を割いてしまうと、彼らを見る時間はほとんどないのだ。彼らが、博士課程に進む例の学生に比べて、要領が悪いと言えばそうかもしれない。ずぶとく「見てください」と言うべきだったのかもしれない。しかし、それをさておいても、研究室として良い立場に押し上げてもらっている人間が、彼らのような、発表に慣れていない同期のことを考えずに、ひとまず自分の発表さえよくなれば、と考えていていいのか?少しは、周りを見渡したらどうなんだ?そういう思いがふつふつと湧いてきたのである。

 
 上記から察するに、PineTree氏が調整すれば、頭の良い彼も学会発表したことのない2人も、もっともっと練習を見てもらえたのではないか?「見てあげる」立場のPineTree氏が自分にそれをする義理はないと言うなら、頭の良い彼を責める資格はない。彼のほうにこそ、そんな義理はない。

 無邪気で傲慢なのはPineTree氏だと僕は思う。彼を責める前に、自分を責めよ。



追記

 この後のエントリーが昨日書かれていたのだね。きちんと話に行ったのだから、「無邪気で傲慢」は撤回。

 このエントリにも思うところはあるけど、もういいや。